なぜ僕が「ポケモン」ではなく「デジモン」に惹かれるのか


◆近況報告

 

「曲ができません!」という話は割と頻繁にしているので今更なんですが、最近何を作ればいいのか、何が好きだったのか、とか考えてるうちに分からなくなってしまって、子どものころ好きだった作品に思いを馳せる日々が続いています。

そう思っていたら『コレクター・ユイ』OPの「永遠という場所」が聞きたくなって、中古で入手してみたわけですが、今聞いてもやっぱり良い曲でした。

そして次に聞きたくなったのがデジモンです。僕の世代はほぼ全員「Butter-Fly」が歌えるという感じなので、カラオケの〆とかで割と最近までなじみがあったのですが、個人的には「The Biggest Dreamer」が好きで、結局ベスト盤にしました。和田光司ボイスが沁みます。

そんなこんなで、『デジモンテイマーズ』が見たくなり、落ちてるのを見たり調べたりしてました。

 

当然面白かったんですけど、見ているうちに少しだけ自分が好きなものが見えた気がしたので、書き残しておきます。


◆現実と空想の境はどこにあるのか

 

『デジモンテイマーズ』がテレビ放送していた2001年前後には「ネット世界に入って戦う」ストーリーが流行していたように思います。すぐに思いつくだけでも「電光超人グリッドマン」「コレクター・ユイ」「電脳冒険記ウェブダイバー」などがありました。あの頃はまだネットも現代ほど普及していなくて、子どもひとりひとりが端末機器を持つということに憧れる時代でした。そういう意味では、スマートフォンを各自が持っている社会でそういう物語は古臭いのかもしれません。

僕の家は携帯電話もネットをつなぐのも比較的遅いほうだったので、その憧れは強く持っていたように思います。また、少し前に流行した「異世界ファンタジー」ものにつながりますが、「違う世界に行きたい」という願望もありました。そういう意味で、当時からすごく好きだったという記憶があります。

 

さて、デジモンというと1999年の「デジモンアドベンチャー」から作品に触れたのですが、あの世界ではデジモンは完全に未知の存在なんですよね。「テイマーズ」がおもしろいのは、主人公たちも視聴者と同じようにデジモンを知っていて、使っているカードゲームも実在するところです。共感しやすいということだけではなく、現実世界ならではの問題が数多く起こるところが良いです。

 

大事なのは「物語が現実になった」という物語を見ていることです。何言ってるんだ、という感じですが、実際のところ主人公たちも本来視聴者だったはずなんですよね。そういう「二重」の感じは、「ゲームをしている主人公を操作するゲーム」という意味で『.hack』や『SAO』のゲームを想像してもらえたら分かる人も多いかと思います。あ、『ドラゴンドライブ』も近いですね。

 

ともかく、そう考えると「現実」と「空想」の境目がすごく曖昧なんですよね。自分が生きている世界でも、空想の物語が現実になるかもしれない。そんなことを言うと「中二病」っぽいんですけど、本当に割り切っていいのか、と疑問に思うことがあります。

 

たとえば、『さらざんまい』では不要な人間を粉々にする機械が出てきます。『輪るピングドラム』もそうですが、あの監督の作品の中では「他人の命が軽い」ように思われます。たしかに、現実世界で不要な人間を粉々にするのはありえないでしょう。ただ、NHKのいじめドキュメンタリーで「学校では子どもの命は軽い」という話を聞いて、あながち間違っていないのではないかと感じてしまいました。

いわゆる「ディザスター系」というのでしょうか、巨大な自然災害にあう映画って結構多いですよね。あれも空想ならいいんですけど、災害大国の日本では割と他人事とはいえない感じです。

 

考えれば考えるほど「現実と空想の境」が分からなくなってきます。でも、それでいいのかもしれません。

 

以前作った曲で「水平線に沈む惑星」という作品があります。厳密には「それが収録されるはずだったアルバム」の話なのですが、そこで紡がれる物語は誰かが見ている演劇だという設定があります。登場人物もその世界の中で空想することがあるのですが、その営みさえも誰かの空想だ、という。

でも、空想が、精神が、現実世界に影響を与えることだってあるかもしれない。それは人間が作った法や社会が逆に人間を縛るように。どこかでフィードバックするものなんじゃないか、って思うんですよね。

だから、僕は空想と現実をはっきり分けません。生者の国と死者の国が隣接する『日本神話』や『ゲド戦記』のように。


◆失ったものは戻ってこない

 

『テイマーズ』主人公の啓人くんが密かに想いを寄せている、クラスメイトの加藤さんを語らないわけにはいけませんね。序盤は笑顔が似合う可愛い女の子なんですが、パートナーのレオモンが倒されてから歯車が狂いだします。終盤のカギになるキャラではあるんですが、実母が亡くなっているなど、闇が深い子。とにかく不遇。

 

ひょんなことからレオモンとパートナーになるんですが、力を求めるベルゼブモンに目の前で無残にロードされるという……。「アドベンチャー」などでは倒されたデジモンはデジタマに初期化されてまた復活した気がするのですが、ロード(=吸収?)されると勝ったデジモンに一部になるようで、そのまま復活しないという……。

そのあたりの設定が「データだけど遊びじゃない」っていう主旨と合致しているのですが、まあ不遇ですよね……。

 

あと、僕は聞いたことないんですが、後日談にあたるドラマCDがあるようで、最終回でデジモンたちと別れてから、1年経ってもまだ再会できてないらしいんですよ。「デジモンへのメッセージ」という内容を変えないまま、「それをデジモンたちが受け取って再生している」ということにすればだいぶ希望が持てると思うんですけど……。今言っても仕方ないですね。

 

そんなわけで、作中に「失ったものは戻ってこない」という描写がちりばめられていたように感じました。もちろん寂しさや悲しさもありますが、それが「区切り」として大きな意味を持っていることは重要だと考えます。

 

というのも、世の中には年齢が変わらないまま続いている物語が多くあるからです。『ドラえもん』だったり、『クレヨンしんちゃん』だったり、『サザエさん』だったり……。

長く続くこと自体は決して悪いことではないと思います。それは利益の話でもありますが……。

しかしながら、そういう「終わりのない物語」は僕自身ちょっと苦手です。

 

そもそも、人間の寿命って有限ですよね。死んだらそこで終わり。リセットしてやり直せるわけでもない。

だから、「永遠」が苦手です。「永遠」を求めるのは素敵だと思いますが、たとえば「不老不死」になって周りが死んでいくのを見つめるのはまっぴらごめんです。『火の鳥』にそんな話ありませんでした?

 

あとは「保険」の考え方も、どうかな、って思ってしまいます。けがや入院のための保障は大切だと思います。でも「けがや病気をしなかった」ことには決してならない。

情報の拡散なんてもっとひどいですよね。一度広まったらなかったことにできない。物体じゃないから、排除することもできません。デマで大切な関係が壊れることもある。

 

全部リセットしてなかったことになんてできないし、「終わり」があるから「始まり」があるんじゃないかな、って思います。「死なないのは生きてないのと同じ」っていう、不老不死は生きてない理論ですね。

 

ここでも自分の曲宣伝しますが、「とべないことり」がふさわしいかな、って思います。

『よだかの星』に強く影響を受けてますが、最後に主人公が死にます。でも、鳥籠の中で死んだように生きるよりはずっとマシ、という。

 

「命を燃やす」ことで星になれるんじゃないかと思うんですよね。別に自殺を推奨しているわけではないのですが、「終わり」ってその人の「在り方」を映すのではないかと。だから、「終わり方」って大事にしたいです。


◆なぜ僕が「ポケモン」ではなく「デジモン」に惹かれるのか

 

そろそろ表題に戻ります。といっても、ここまで読んでくれた物好きな方はとっくにわかってると思うんですけど。

 

別にポケモンが嫌いなわけじゃないんですよ? ただ、葛藤だったり、個性だったり、世界観だったり、僕が求める要素がちょっと足りなかっただけなんです。

すごく当たり前ですけど、万人が好きなものなんてないんですよね。

 

ここで述べる「デジモン」は『テイマーズ』に限りますし、比較しているのも基本はアニメのみです。

偏った見方なのは否定できませんし、客観性はほぼないようなものです。

 

まあでも、一個人の意見でも書き残しておくことには意味があると思いますし、これを読んで少しでも共感してくれる人がいたら幸いです。

 

結局は「曲できねぇ!」っていう愚痴なんですが、自分の考え方を見直す良い機会だったかな、と思っています。

これまとめたからといって、曲は進みませんけどね……。僕の冒険はいつ現実になるのかな……?